Fear is often greater than the danger.

 衛藤桐也は、中学3年生であった。
 年齢より大人びた外見は、基本的に、その実を他に悟らせない。が言うには、そいつは詐欺であった。つまるところ、彼女もまた、桐也の外見に騙されたわけである。桐也の場合は外見だけでなく、相手への応じ方にも落ち着きがあるからであったので、その所為では勘違いしたのだ、というのは、一度桐也と話でもすればなるほど頷ける。
 ところで桐也は、来年から星奏学院に通う予定になっている。無論、受かりさえすれば。とはいっても、その点については、桐也の学力ならばまるで問題はないのだが。
 「だからさ、ここリズム間違えてるって。さっきも言ったろ?」
 「そうだっけ?」
 星奏学院には、普通科と音楽科とがあり、不定期に音楽の学内コンクールが行われたりする音楽の盛んな学校である。何部屋も練習室が開かれているし、屋上や広場も開放してあるので、生徒たちの練習にも非常に環境が良い。
 はそんな星奏学院の普通科の一生徒であり、小一時間、その練習室に篭って楽器の練習をしていた。弾くのはヴァイオリンである。ちなみにずぶの素人であった。そして、そんなど素人であるからこそ、練習に詰まっていた。
 そういうわけで、たまたま通りがかった衛藤桐也を見つけて、強力な助っ人として練習室に引き入れたのであるが、外部生の桐也が星奏でふらふらしていたのは、来年通うであろう場所の見学以外の何物でもなかった。つまるところ、無理を言って教えを請うたわけであった。
 「あのな。あんた、一体どうしたらそこ直せるんだよ。これで3回目だぜ?」
 「……と言われましても、どう間違えてるのか……。あ、そうだ、お手本!」
 どうぞ、というように、部屋の隅に置いてある桐也のヴァイオリンへ向けて、が手でサインを送る。
 「……それは弾けということかな、お嬢さん」
 頬を引きつらせて桐也が言うのに、はにっこり顔で頷くばかりであった。前にもこんなことがあった。そして桐也は今回も、こういうのお願いを、引きつった笑みをしながらも、断れないのであった。実際弾いてみると、
 (こいつ、俺の演奏を聴くためだけに練習に付き合わせているんじゃないか。)
 と、桐也が思うくらいには、嬉しそうな顔をして曲を聴くものだから、結局のところ、桐也だって悪い気はしないのであったが。
 「じゃあそこの最初の小節から弾くから、ちゃんと聴いとけよ」
 「えー、最初っからが良いな」
 「いくら払ってくれんの?俺はあんたが教えてって言うから付き合ってるんだぜ?コンサートしに来たわけじゃない」
 「……ごもっともですけど」
 隅に置いておいたヴァイオリンケースを開いて、光沢のある本体を取り出す。はよく、これを綺麗だといっていた。よくよく解らないことを言うのことではあったが、それには桐也も同意した。
 桐也はヴァイオリンを構えて、一度音を鳴らした。美しい音が出るのは、だって知っていたし、桐也自身が一番よく解っていた。それこそ、いつだって堂々と弾いてきた、桐也自身が。
 「ま、この曲を完璧に弾けるようになったら、考えてやってもいいかもな」
 不満げなの顔をおかしく思いながら、桐也は何とはなしに言った。別に今弾いてやっても構わないが、それでは伸び盛りのの邪魔になるに違いなかった。時間とは、有限である。本人が望んでいるとはいえ、桐也は決して、彼女を駄目にする甘やかしをしないのであった。の表情がみるみる明るくなる。
 「やった、じゃあちゃんと聴いて早く覚えるからね!」
 の反応は、毎度のこと単純であった。無論、桐也の想像どおりであった。だが、桐也がを愛しいと思うのは、そういう彼女であったからだ。知らず桐也は微笑んでいた。余計な蟠りのない彼女との関係が、桐也は気に入っていたのであった。
 該当する小節を弾き終えると、がなるほどという顔をしたのを、桐也は見逃さなかった。正直、はろくに楽譜も読めないのであろう。
 「俺が弾くのはいつになることやら」
 「えっ、何だって?正直今日中に桐也のヴァイオリン聴ける自信あるよ」
 ぽつりとひとりごちた言葉を、は大抵聞き逃さない。あらゆる言葉を拾ってくれる。だから桐也が言いづらいことだってきちんと理解してくれるし、やり取りが楽だ。逆に言えば、なんでもかんでも拾ってくれるから、あまり余計なことは独り言だとしても零せないということだ。今回も、調子のいいことを返してきた。まさか、と思っている桐也はおかしくなって笑う。
 「あんた物に釣られないと何にも出来ないのな」
 「へへへ」
 「へへへじゃないよ。一体何時まで付き合わせるつもりなんだ」
 「嫌なの?」
 溜息混じりに桐也が言うと、が真面目な顔をして尋ねた。桐也が油断すると、たまにはこういうことを言う。女は何かを求めるみたいにこういうことを尋ねたりしてくるから、桐也は面倒くさいと思っていた。思っていたのに、はまったくそいうった目をしないで、心底相手のことしか考えずに尋ねるものだから、桐也が惹かれないわけがなかった。
 「……嫌じゃないよ」
 だから桐也だって、なんの恥ずかしげもなく、ただ優しい心持になって、にそう言えるのであった。一生懸命なが、桐也は好ましかった。つくづく、でなければ駄目なのだと桐也は思う。そうでなければ、こんなところで何時間も人の練習に付き合ってなんかいられない。自分の練習のほうがよっぽど大事だ。
 「へへ、ありがとう」
 が嬉しそうに笑うのを、桐也はもっと見たいと思った。出来るなら、これからもずっと。
 来年は、学内コンクールなんて開かれないかもしれない。ヴァイオリン・ロマンスだって、同じだ。だけど、そうじゃなくても、来年は、一緒に居られたらいい。誰かの起こしたロマンスを信じるよりも、自分が掴んだこの気持ちを、少しずつでいいから、彼女の伝えてゆくのだ。それだけで、きっと彼女は笑ってくれる。
 「来年が楽しみだな」
 「うん、そうだね。でも私のほうが先輩なんだから、大きい顔しないでね」
 「今更先輩の体裁を守ろうなんて遅いんじゃない?」
 「…………」
 じとっとした目でが桐也を見つめる。最初からは桐也を同い年だと思っていたし、桐也だってが年上だということを気にしないで付き合ってきたから、来年になっていきなり上下関係を貫こうとするのはほとんど無理だと桐也は思っている。も口ではああいうが、実際のところ桐也と同じように思っているのは明らかであった。
 「あんまりむくれてるとそういう顔になるぞ」
 桐也は頬を膨らませたの顔に笑いそうになりながらも、その両頬を指でつまんで引っ張りつつ言う。がみるみる不満顔になっていくので、ついに桐也も笑みを見せたが、おかしいと同時にいとおしくて、その額に小さな音を立ててキスをした。
 「うおっ」
 その瞬間にが可愛げのない声をあげるのは、照れ隠しだと桐也は知っていた。このまま抱きしめてしまおうか、と思う。だけどそんなことをしたら、練習になんか戻れない。戻れなくなってしまう。多分。絶対。
 「あんたとだったら、アンサンブルやってもいいかもな」
 アメリカに居て、現地の友人とアンサンブルをする約束をしていたが、結局流れてしまったのを思い出しながら、桐也は呟いた。誘われたアンサンブルよりも、自分のコンクールが重要で、相手にもせず練習して、優勝して、だけど友人たちの下手くそなデュオの方が音楽として評価された時の気持ちは、今でも忘れない。だけど、今だったら。今だったなら、どんなに有名なヴァイオリニストであろうが指揮者であろうが、そんなふうに言わせたりしない。桐也の音が変わったというのは、のお墨付きだ。
 「じゃあ、これ弾けるようになったら、一緒に弾こうね!」
 「楽しみにしてる」
 音楽は、愛するものだ。今なら愛せる。もちろん、そう解らせてくれた、も。

2009-6-14 脱稿
一部設定を『追憶のソルフェージュ』より参考。

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