次の日、放課後になるまで、私は一度も古泉の方を見なかった。
 授業中は特進らしくしっかり黒板と睨み合って、休み時間は読書に勤しんだり友人と話したりで、更に昼休みも同様にしていたし、ずっと格好つけているようにしか見えなかった背中は、今日一度も私の視界に入らなかった。そうやって、解りやすくも忘れようとしていたが、人間というのは忘れたい忘れたいと喚くほどにその記憶ばかりが鮮明に脳裏に浮かぶもので、意識は確実に数分おきぐらいで浮上してくるのだった。溜息は、いつの間にか癖になっていた。
 生徒たちが授業から解放され、掃除までが終わると、
 「ー、昨日どうだった?あの涼宮ハルヒに呼び出されたんでしょ?古泉君も居たんでしょ?」
 忘れようとしていたことを、友人A、稲木知美は、須らく思い出させるのだった。SOS団は、1億歩譲ってよしとして、古泉の話題はほとほと避けたかった。毎日のように感じていたあの苛々は、完全に痛みと空虚さでしかなかったのだ。聞きたくなかったけれど、スルーするわけにもいかないので、
 「なんか、あの珍集団に加盟させられた」
 と、努めて明るく言っておいた。それから、「えっ」という一言とともに、驚きつつも引きかけた知美に、これまた明るく笑顔を向けてやった。疲れる。そんな自分を健気だと一瞬ばかり思ったが、優しさを蹴飛ばされたのに変わらず親切を続けて真実そうであったのは当然古泉とかいう奴であって、私では決してなかった。なので、夜布団に潜り込んでから色々悶々と考え、結局私はその珍集団でよろしくやることを決めたのだった。これからは、私こそ親切が出来たらいいと柄にもなく思っていた。私が仮面を被って受け取りながらも根底では跳ね除けた分の親切を、いやそれの倍を、古泉という男に返してやる気にさえなっていた。

 「じゃあお前は優しい奴ってことなんじゃないか」
 それをこう言い換えたのは、友人Aとの会話後すぐ向かったSOS団の根城に既に腰を落ち着けていたキョンであった。
 「嫌な奴してるのに?」
 文芸部室には、私とキョンと長門しか居なかった。長門はこの部屋の置物のひとつかと言いたくなるくらいに定位置にマッチしていた。今日も本を読んでいる。話したことはないが、多分私は長門が嫌いじゃないと思う。今度話合わせに本でも読んでみようかと思ったくらいだ。普段から読んでいるが。それでもあんなに極厚の本は滅多に読まない。
 「気付いて、直して、そのうえプラスアルファしようって考えるのは、良い奴だからだと俺は思うけどな」
 キョンは私の向かいの席で、オセロの準備をしながら言った。キョンからの私に対する評価は上々らしい。良い奴と言われて悪い気はしないが、疑問は感じるのだった。人を傷付けたのに良い奴?
 ところで、会って2日目だというのに、何故私はキョンに相談事を持ちかけているのだろうとふと思ったが、キョンもキョンで、何の疑問もなく答えをくれるのだから、互いに早くも馴染み始めているらしかった。クラスメイトの古泉を差し置いて、昨日一番話したのもキョンだった。おかしなこともあるもんだ。キョンとは気が合いそうだった。
 「古泉、許してくれるかな」
 「あんだけにっこり笑ってりゃ聞くまでもないだろ。あー、しかし、古泉ねえ。あの変人に恩返ししようだなんて、お前も本格的に真面目だな」
 キョンが言う。きっちりしていないと気が済まない、というほどの几帳面でもないどころか、ものぐさなのに。
 「当たり前だと、私は思うけどね。悪いところを改めるのも、傷を付けた人間が、その傷を癒すのも」
 そう、当たり前のことなのだ。面倒くさがって逃げる以前の問題なのだ。キョンは「そこまでくると胸張れるほどお人よしだ」と言った。呆れているらしかった。でもそれは私の長所だとキョンは言った。
 「ま、適当に頑張れば良いんじゃないか」
 キョンの、そのほどほど加減が、何故か私を救うのだった。
 「オセロ、やるか?」
 箱からオセロ盤を出しながら、キョンが言った。
 「やる」
 答えると、キョンが笑った。更に「小学生か」とキョンが突っ込み、それから自分が笑っているのに気付いた。まるでおもちゃを与えられて喜ぶ子供のようだったらしい。オセロの石を弄びながら、ふとSOS団とかいう珍集団が、悪くないような気がしてきた。これは多分転機なんだろう。与えられたこの場所で、適当に楽しんでおけばいい。そして、ゆっくり心から優しく出来るようになればいい。
 「キョン、会議よっ!」
 緩やかな空気を、ドアを開放した団長が一瞬にして破壊した。その後ろに、朝比奈さんと、古泉が居た。

 突然の会議が終わったのは、下校時間10分前という、狙ったかのようなタイミングだった。
 会議はハルヒが駆けずり回って見つけてきた謎らしきものと、なんかのイベントのチラシとで始まった。SOS団の今後の方針について、主にハルヒ、どころか、全てハルヒ、と言っていいほどハルヒ中心の意見でまとめられ、キョンと私は溜息のつき過ぎでどうにかなりそうだった。朝比奈さんは次のコスチュームも押し付けられていたが、抵抗空しく終わったのは言うまでもない。ついでに古泉がいつもの微笑を浮かべていたのも言うまでもない。
 「いつもこんなことしてんの?」
 「聞くなよ」
 浮かび上がった疑問を素直にキョンにぶつけると、眉間に皺で返ってきた。どうやらいつもこんなことをしているらしい。つまるところ私のヒットポイントはまだ減り始めなのであった。まあ、そのうち、段々と漂う諦念というスキルによって、削られるポイントは減少させることが出来るだろう。諦めと、慣れだ。そう考えながら、慣れたくなんかないと思った。
 「じゃ、帰るわよ」
 ハルヒがそう声を上げると、団員は各々の鞄を持って、扉を潜るハルヒの後を追った。ところで、どうしてこんな謎の同好会もどきに顔を出しているのか、未だに疑問だった。参加するのは決めたことだしもういいが、今自分は何をしているんだろうと思うだけある、変な団体なのには間違いなかった。とはいえ人間の順応能力は途轍もないので、近いうちにUFOを呼ぶ儀式に私が参加していたとしても、今の私は否定しないのだった。
 日が落ちてからの廊下は酷く寒々しい。一番最後に私が部室を出て、電気を消し、立て付けの悪い扉を閉めると、それを古泉が待っていた。他の皆は電気など忘れたとばかりに先に行ってしまっている。古泉が良い奴だった。待っていたことに驚きつつ、『嫌な奴』ではなくなった小泉に感謝の意味で微笑むと、古泉はちょっと嬉しそうに笑った。その光景がなんだが不思議だったし、呼吸が苦しかった。私はなんだか緊張していた。
 「行きましょう」
 古泉が言った。もうふざけ合いながらゆく他の4人の背中は10メートルくらい先にあった。私は古泉と並んで歩いた。廊下はすっかり暗かった。響く足音が静寂を切り裂いている。古泉の顔は見なかった。見られなかった。励ましてくれたキョンが居なくなると、途端に私が今悪いことをしているような気がしたのだ。傷付けた私が隣に居るのはいけない気がした。
 それでもこうすることは私が決めたことだったはずだ。
 「ごめんね」
 私は歩きながら思わず謝っていた。古泉は何も答えなかった。私は古泉を見た。古泉は悲しそうな顔をしていた。……私はまた、傷付けてしまったのだろうか。
 「ありがとう」
 どうしてそんな顔をするのか解らなかったので、とりあえず今出来ることをした。心からの感謝を声にした。
 古泉は、くしゃりと笑った。やっぱり悲しそうだった。



―――I don't know you look sad,and I won't from now on.
2008/5/5


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