生 を 告 げ る





鳥が鳴いている。浮き上がった意識のままに目を開けると、白い天井が映った。真っ白いだけの、殺風景で酷く寒々しい、薬品の臭いが立ち込める一室に私は寝ていた。清潔なシーツが敷かれたベッドに横たえていた上体を起こす。薬品棚や無機質なベッド、デスク。そういったものしか見えないここは、一体どこなのだろう。

「目が覚めましたか」

落ち着いた声が静かな部屋に満ちる。ドアから一人の訪問者、―――ジェイド・カーティス。真っ赤な瞳が此方を見つめている。射抜くような深紅が、昨夜のことを鮮明に思い出させた。路地裏で死にかけただなんて、今考えると恥ずかしい。何が恥ずかしいのかって、一番はそんな無様な格好をジェイドに照覧されたことだ。

「出血が酷かったので死ぬ可能性も充分にありましたが、やはり強かですね。見事に生還ですか。おめでとうございます」

ジェイドが嫌味を込めた口調で食えない笑みを漏らす。相変わらず口が達者だ。あれほどまでに血液を失ってよく生きていられましたね、とジェイドはまるで人ではない何かを見るような顔で私を見た。

「……ありがとうございます」

これでも日々鍛えているのだ、食えない眼鏡と違って。ぼそりと言いそうになった言葉を飲み込んで、内心冷や汗を流す。口が達者ということ以外にも、性格が捻くれているということは周知の事実であるほど有名な話だ。ちょっと目をつけられればいびり倒されるという地獄が、彼の部下には待ち受けている。つくづくそのポジションではなくて良かった。今の私には嫌味を受けるほどの元気が無かった。何しろ貫通する勢いで脇腹が抉られていたのだ、下手に動けば傷が開いて内蔵を目撃する羽目になるかもしれない。

私の溜息を他所にジェイドが窓を開け、薬品のにおいばかりが鼻を突く部屋に風を通す。窓枠の向こうに空が見える。真っ青で、今まで見た事無いくらい、綺麗で。あのとき死んでいたら、ジェイドが迎えに来なかったら、こんな空も見ることがなかったのだろう。くすんだ青しか、知らなかったのだろう。

「魔物に遅れをとって路地裏で蹲って挙句鬱に陥るだなんて軍人として―――おっと失礼、ブウサギ飼育係としてなりませんね」

ジェイドが意地の悪い顔で言う。重傷を負って精神的にも参って堕落した状態をまんまと見られただなんて、恥ずかしすぎて消えたくなる。しかも相手が完璧なるジェイド・カーティスだ、民間人に見つかったほうがずっと良かった。

なおもジェイドの嫌味は続く。

「最近ブウサギの飼育はどうです?貴方には遣り甲斐のある仕事では」
「……さっきっから黙って聞いてりゃ!五月蝿いわね、ブウサギブウサギって!好きでこんな仕事やってんじゃないわよ!」

理性が蒸発、大音響に耳を塞ぎたくなるもこの騒音は自分の口から発せられるものだと気付いてどうしようもない。誰がこんなつまらない仕事を喜んでやるもんですか、私は軍人になりたくてずっと訓練を積んできたのに、何がどうなってブウサギ飼育係になった、あの優男ピオニーの鳩尾に一撃食らわせてやりたい、あの可愛くないブウサギに一蹴したい。ブウサギ自体は別にどうでも良いのだが、ピオニーのものだと考えるとどうしようもなく苛立たしい。

「私は軍人になりたかったのに!!誰が好き好んであんな可愛くもないブウサギを育ててやるもんですか!!」
「……っはは、」
「っ、……何笑ってるの」

喉が裂けんばかりに叫ぶ合間にジェイドの笑い声が入る。怪訝そうにジェイドを見やると面白そうに笑っているので、奴にもエルボーをかましたくなるが恐らく簡単に避けられてしまうだろう、やめておく。何でもかんでも予想が立って余計に苛立つ。

何故笑っているのか皆目見当もつかないが、兎にも角にもジェイドの意味不明な笑いには腹が立つ。何だか馬鹿にされているような気がして、見下されているような気がして、いつだって惨めな気持ちになる。見る度見る度、思うのだ。

なんで神様は、私にこの人の力をくれなかったんだって。

「何が可笑しいの、」
「いえ、……漸くいつもの貴方に戻ったと思いまして、つい嬉しく」

そう言われて、思い出す。いつも嫌味を含んだ言葉ばかりが彼との会話には混ざり込んでいて、それを聞く度に私は腹を立て反駁していたこと。毎回毎回面白そうに笑っているのはジェイドのほうで、私は結局惨めなだけだった。毎度反抗するはずなのに、今言われ続けた針のような言葉には私が何も反応を示さなかったのを、ジェイドは訝しげにしていたらしい。

それは解ったが何故嬉しいのだろうか。反抗的で、お淑やかさの欠片も無くて、可愛げなんてこれっぽちもない私に再び戻ったところで何が。私だったらきっと、残念だと吐き捨てるだろう。

「何で、」
「そういえばブウサギ飼育係の地位は剥奪させていただきました」

何で嬉しいのかと聞こうとしたところで、ジェイドが次の話題を持ち出す。有耶無耶のままなんて。釈然としないままだが仕方が無い、何せ内容が内容だ。ブウサギ飼育係の地位剥奪。そんな地位要らないから別にどうだって良いという本音が浮き上がるものの、これはつまり失職ということだ。明日からどう生活しろと。なんてことをしてくれた。

「就職活動しなくちゃならないじゃない!」
「話は最後まで聞いてください。何もクビと言ったわけではありません」

じゃあ何だというのだ、どう考えたって明日の食料に困る姿が浮かんでしまう。この年にしてダンボールハウスに住まうのは気が引ける。幼い頃から軍人に憧れ、それしか見えていなかった私には他の職業なんて到底出来っこないのだ。そもそも軍人に憧れているにも関わらずダンボールハウスで何をしているのだという辱めを受ける。一体なんだというのだ、勿論その地位を剥奪したからにはしっかりした就職先が待ち受けているのだろうなと心中で脅しをかける。


「昇進です。魔物に屈して死にかけたブウサギ係から、軍人へ。新しい就職先はマルクト帝国軍ですよ」


ブウサギ係から、―――軍人へ。


「っ、は、嘘でしょう!?」
「ああそうですか、ならばこの件は取りやめです。可哀想ですがダンボールで雨風を凌いでください」
「ちょ、待った待った受けます!勿論受けますとも!」

とんでもないことが耳に入って思わず疑うと、ジェイドが踵を返しかけたので焦って彼を押し留める。まさか、まさかそんな良い話を断るわけあるまい。第一軍人になるか死ぬかという両極端とはどういうことだ。

今後は私の下についてもらいます、と眼鏡のブリッジを押し上げてジェイドは言う。待て待て待て、それはつまり冒頭の"彼の部下には地獄"が私の身に降りかかるということではないか。否定したくとも、こんな良い話を断れるだろうか。憧れていた軍人になれる。しかも、尊敬するジェイド・カーティス大佐の下で働けるという素晴らしい特典。―――彼が嫌味でさえなければ。まあどうせ部下でなくともいびられている、この際受けて立とうではないか。ブウサギ係の恥を今こそ晴らさんと意地っ張りな自分が顔を出す。解りました、と二つ返事で了承。

ジェイドは私の返事を聞いてにこりと笑うと、交渉成立ですね、と言って私を抱き締めた。

「陛下には悪いですが、ブウサギより貴方の方がずっと大事ですから」

昔から、人とは比にならない努力をする人間だった。負けず嫌いで責任感が強くて。ピオニーに腹を立てても、ブウサギが憎らしくても、仕事だからと全うする。どんなに憎たらしい生き物でも、身を挺して世話をする。重傷を負っても、好きでやってるわけじゃないと文句を言っても、それでも真っ直ぐ任に向き合う。それのどこを軍人に不向きだと言えよう、どうしてそんな逸材を放っておけよう。真っ直ぐな瞳をした世話係はもう居ない。ピオニーの落胆した顔が目に浮かぶが。

―――ひとりでは危なっかしいから、私がずっと見ていますよ、陛下。


「勝手に死ぬことは許しませんよ」


ずっと欲しがっていたこの人の力は、やっぱりわたしには貰えなかった。でも、ほんの少しの幸せを受け取ることくらいは、許されているでしょう、神様。あの時あの場でいっそ殺して欲しかった、必要とされないこの痛みを消して欲しかった。あの絶対零度とは正反対の、今感じているこの暖かさは一体何なのだろう。ねえ、どうして。死にたくない。死にたくないよ、ジェイド。

わたしはやっぱり、生きていたいんです、この人といっしょに。