たおやかな





 吐き気がする。
 「あなたは一般人だもの、仕方ないわ」
 隣で蒼い顔をしているルーク、嗜めるティア、そして十メートル先には濁りのある赤が迸ったあとが、どす黒い空気が、においが、感覚が、そのままに残っているようだ。
 たった今、追っ手の神託の盾兵を、私とルークは始末した。初めて人間を斬ったのである。
 私はマルクトの軍人で、これが初任務になる。超振動によって、キムラスカからマルクト領まで飛ばされたという、王家に連なる貴族の御曹司、ルークを、両国の和平を取り付けるために利用するのが目的であった。また、私はそもそも軍に属して間もない下級兵士である。ゆえに、今回に関しては実戦に臨むことも予定にはなかった。
 ところが、魔物の襲撃、神託の盾兵・六神将の妨害のせいでタルタロスの乗員は全滅した。私と、上司であるカーティス大佐以外は。新参者の私が生き残ったところで碌な戦力にならないのが惨めだが、たまたま大佐の近くに居たことで命拾いしたことだけは、情けないながらもほっとしているところだ。
 十メートル先の、目を逸らしたくなるような現場をぼうっと見る。吐き気は残っているが、見ずには居られぬような、不思議な感覚でもって、ただじっと見つめる。その先に、見慣れた青い軍服が、ちらついていた。
 ルークを庇って怪我をしたティアや、あまり身体の強くない導師イオンを考え、私たちは今休憩している。私は木陰に腰を下ろし、相変わらず視線をそのままにしていた。見なければ。どんなに気持ちが悪くても、見なければ。そして失われた命を弔わなければ。自らの手の重みを、自覚しなければ。
 「貴方も殆どルークと同じですからね。ご苦労様です」
 いつの間にか、十メートル先には青い影が消えていて、不意にかかった声に顔を上げれば、薄い笑みを浮かべた大佐があった。先ほどまで何か異常がないか現場で調査していたはずだったが、時刻を確認すればすでにあれから20分近く経っていた。戻ってきていてもなんら不自然はない。
 「お役に立てなくて申し訳ありません」
 大佐の労りの言葉に、自分の不甲斐なさを噛み締める。自分はあくまでも軍人である。それは、軍に居る時間に関わらない。それだけに、先ほどのティアの言葉は痛かった。ルークは一般人であっても、私は違う。だから決して仕方のないことじゃない。青ざめたりなんかすることは。私は私が職業軍人であることを忘れるわけにいかなかったのだ。
 「最初から出来るとは思っていませんから、謝ることはありませんよ。貴方は力があるから今ここに居られるんです。世間じゃ運も実力のうちと言いますから」
 相変わらず薄い笑みを浮かべたままの大佐に、私は曖昧な表情しか返せなかった。世間じゃ、という言葉を引っ張ってきたのは、大佐自身がそう思っているわけじゃないからかもしれない。実力主義だから、私だって思っちゃいない。
 「まあ、そのうち慣れるでしょう」
 何に、とは彼は口にしない。しなくたって解るし、すれば重圧が跳ね上がる。それは面倒なのかもしれないし、無意識なのかもしれないし、ひょっとすると彼なりの気遣いかもしれない。
 私はいつか戦場に慣れる。人を殺すことにも、亡くなった兵士を見ることも、無関係の人々を見ることも、自分が危険に晒されることにも、血を流すことにも流されることにも、そして何も感じなくなることにも。だけど、それでも良いのだと思う。そうだと解っている。そう、信じてもいる。
 人間は、そういうふうに出来ている。

 結局、今日は野宿する羽目になった。私は別段場所を気にしない性質であるから、その決定にも素直に頷いた。快く思わない人間は、恐らくルークくらいなものであろうが。
 星が綺麗に夜空で瞬いている。空気も冷え込んで、しんと静かな空間に、ひとり取り残されているような気さえする。寧ろ、ひとり取り残されたい、の間違いかもしれない。誰の邪魔も入らず、ただ考えていたいのだ、どうやって敵を引き倒し、どうやってつるぎを構え、どうやって突き刺したのか、何人も、何人も。私は戦う力が無いわけじゃない。戦力にならない、というのは、そういう意味じゃない。そうやって何かを奪っていく力だけはあると、自負している。それなのに、それを背負っていく心だけが、追いつかない。私にとって、人はあまりにも簡単に死んでしまう。敵よりも、自分のほうがよほど恐ろしいこともある。
 夕食は、ルークの屋敷の使用人であるガイが作った。とても美味しかった。嫌なことがあると、決まって食事は美味しい。そういうちょっとしたことが、落ち込んだ人間を元気付ける。悲しいとき、いつも空は綺麗であるように。
 「どうしました、皆寝てしまいましたよ」
 また頭上から声がした。焚き火を囲って各々が防寒具を纏い、寝息を立てている。私はそこから少し離れた木の根元に、腰を下ろしていた。声の主は解っていたが、顔を上げればやはり大佐であった。
 「そんなに眠くもないので、見張りです」
 「見張りは私がやります。貴方は寝ていてください。明日に響く」
 見張りなんて口から出任せであった。そうであったから、大佐の言葉に押し黙る。私はただ起きて考えていたかっただけだ。返答に窮すと、それを知ったように大佐は口角を上げ、すぐ傍に腰を下ろした。薄い色素の茶髪が、動きに合わせてささやかに揺れる。それが綺麗だと思うのは、嫌なことがあったからではなかった。それはいつだって、その真っ赤な眸同様に、私の視線を攫ってゆくのであった。
 「ルナが綺麗ですね」
 惑星オールドラントは、衛星ルナを持つ。夜空に瞬く星々の中に、一段と大きな光が見える。
 「それは口説き文句ですか」
 「違いますよ」
 大佐の髪から無理に視線を逸らしてふと目に入ったのがそれだったから感想を述べただけであったが、どこかの作家がそのようなことを口にしており、それを大佐も知っていたようだ。胡乱げな目で見ると、大佐はふっと息を漏らしただけだった。きっと笑ったのだと思う。
 「貴方も人の子ですね。女性では珍しいことに単身登用試験に乗り込んできたかと思えば、こうして眠れずにいる」
 大佐が口にしたことに、私は視線を足元へと下ろす。私は自分からその話をするつもりはなかったし、されても揚々と相手をする気になれなかった。そうではあっても、話す以外の選択肢は持ち合わせていなかった。大佐は私の尊敬する軍人であったから。
 「軍に入ることは夢でした。でも入ってからは、夢の延長には成り得ませんから、悩みもします」
 沢山の人を救うこと、大切な人を守ること、正義を貫くこと、そうすることで私が私であること。すべてはそれに基づいてであったが、お遊びでやるものじゃないのであるから、それなりの障害もリスクも義務も、葛藤もある。
 理想的な自分であることは難しい。人を守るために剣を手に取り、その剣は人を殺す。かといって、話し合いでは何も解決しないことだって、世の中にはごまんとある。それが現実であり、直視せねばならぬ事実なのである。
 「人は影響されやすい。貴方のように暑苦しい理想主義者が居れば、周りも自然そうなる。ですが実際、善良な市民を守るそれだけのためにやって来る志願者はそういません。皆それなりだ。貴方はそれなりの中に埋もれないだけの素質がある。ただそれを活用できなければ宝の持ち腐れでしょう」
 大佐が夜空を見上げながら言う。自然と視線が大佐のほうへ惹きつけられ、赤い眸を直視してしまう。その目はたおやいだ色を孕んでいた。
 私には人を殺し、人を守る力がある。だから今後は十分にその力を発揮して、軍に貢献なさい、要約するとそんなところだろうか。それは残酷な意味を併せ持っていたが、恐らく檄を飛ばすような意味で言われたのだと思う。そうと気づくと、急激に顔が熱くなってきた。
 「暑苦しい、は私に失礼じゃありませんか」
 照れ隠しであった。またそれは、大方露見していたのだろう。
 「いえ、褒めているんですよ」
 そう言って大佐がにっこりと笑う。恥ずかしさで顔を覆いたくなるも、闇に紛れて顔など紅潮したとて解るまい、と開き直り、再び星へと視線を戻す。今夜は本当に空が綺麗だ。軽くなった心が、自然ふわふわと漂う。
 「大佐は、私の自慢の上司です」
 しばらくの沈黙の後、私は呟いた。静かで穏やかな時間が、いつも思っていても言えないそれを、言わせたのであった。かつてより、憧れていた。尊敬している。本当に。大佐が再びふっと息を漏らす。
 「手のかかる部下はあまり欲しくなかったんですが」
 そう言って彼が吐き出した息は甘く夜空に溶けていった。そのとき確かに、彼は笑っていた。




2009/12/26