雨と絆創膏





 午後2時25分。窓ガラスは雨粒を受けて、外の景色を歪ませている。
 ここのところ曇りの日が続いていたが、今日はついに降り出した。本当ならば散歩にでも出たかったが、降雨量を見て諦めた。たまの休息が雨とはついていない。
 「ルークー、つまんなーい」
 手持無沙汰に耐えかねて、近くの赤毛にぶうたれると、知るかよ、と気のない返事が返ってくるのみである。背中に流れる赤い髪が綺麗で、愛しい。机に向かう彼が何をしているのかと彼の背後から手元を覗き込むと、何やら日記をぱらぱらと見返していた。覗くまでは、構ってくれても良いではないかと声をかけようと思っていたが、やめた。私は彼の記憶障害のことを知って以来、彼の記憶にまつわるものというものから、すっかり離れてしまったのだった。触れたくてたまらないのに、触れることが出来ない。
 「暇だなあ」
 窓の外は相変わらず雨で、そいつの止む気配はない。雨音を聞きながら読書をするのも悪くはないが、なぜだか今日はそういう気分になれない。
 「そんなに暇ならなんか作ってくれよ。腹減った」
 暇だなあ、とは、声に出したつもりがなかったのだが、どうやら出ていたらしい。日記帳と睨めっこしていたルークが、凝り固まった背中を伸ばすようにして言った。なるほど言われてみれば空腹感がある。今日はゆっくり出来るということに甘えて、まともな昼食を摂っていなかったのだった。午後2時27分。今から作ればちょうど3時のおやつになるかもしれない。暇つぶしになるので、私は二つ返事で了承した。
 宿の備え付けのキッチンへ向かう。私は料理が得意でよく料理を作る人間なわけでも食料調達班でもないので、殆ど我々の食材事情に明るくないのだが、確かホットケーキミックスがあったと思う。たまたま見つけて目をつけていた。混ぜて焼くだけのホットケーキなら簡単だからちょうど良い。今日は読書をする気にもならなければ、凝ったものを作る気にもならない。そういう日なのだ。
 粉と牛乳と卵を混ぜ合わせ、油を敷いたフライパンにその生地を流し、ふと物足りない気がしてくる。やっぱりホットケーキだけじゃ何か違う。何か添えたい。さっぱりしたものを食べたい。
 食材を確認すると、果物類は割かし充実していたので、少し拝借することとする。
 ナイフで皮を剥きながら、ふとルークのことが気になった。もうすぐ出来上がるけれど、まだ日記を読んでいるのかしら。なんとはなしに首だけ振り返ると、
 「わあ!?」
 「うわっ!!」
 まったくもって至近距離に壁があったものだから、悲鳴が飛び出した。と、同時に壁も悲鳴を上げてていた。ルークだ。
 「お前、血が出てるぞ!」
 えっ、と呟いて自分の手を見ると、左手の親指から血が滲んでいた。びっくりしてナイフを持つ手がぶれて切ってしまったらしい。ルークのせいだ、いくらお腹が空いていたからってそんなに近くで待っていなくても良いのに、とよっぽど言おうと思ったが、慌てふためいて消毒消毒と唱えながら消毒薬を探す姿を前にして何も言えなくなってしまった。単純な、どうしようもない女なのだ。薬品の入った箱から目当ての瓶を探し当てるその背中に流れる燃えるような長髪に、目を細めてしまうような。
 「あったぞ、指出せ」
 その声にふっと我に返って、患部をさっと水で流し、ルークに差し出した。こんなの自分で出来るのに、言われるがまま、甘えた。
 消毒液を含ませた綿棒が傷口をなぞる。左手は、ルークの右手がしっかりと支えていた。だからもう、痛いのかどうか、よく分からない。麻酔がかかっているみたいで、それから、心臓がどきどきしていた。
 彼は消毒を終えると、さっきの箱から絆創膏を取り出して、私の親指に巻いた。お話の中のどこかの国では、左手の親指に指輪をはめると望みが叶うと言われていたことを、ふと思い出す。私の指に巻いてあるのは絆創膏だけれど、これで代わりがきかないかしらと思う。
 「ティアが帰って来たら治癒術をかけてもらえば良いのに」
 照れ隠しみたいに余計なことを言ってしまう。いや、そうでも言わなければ、ぽろっと、もっと余計なことを言ってしまう気がした。
 「うっせー、黙ってされてりゃいーんだよ」
 ルークはふいっと顔を背けて再び机へ向かってしまった。その耳が赤かったのを見逃せなかった。私は頬が熱くて、余計なことが言いたくてたまらない。余計な二文字を強引に飲み込んで、
 「ありがとう」
 と、その背中に言った。
 ホットケーキが焼き上がり、良いにおいが漂ってきた。果物を添えたら、2人で食べよう。
 心臓はまだどきどき言っている。


『雨関連の五題』Stitch wounds

2015/04/20